2019-02-01から1ヶ月間の記事一覧
712回連続守備機会無失策記録 6月11日の対巨人戦で松井秀喜の放った強烈な打球を弾いて失策を記録、無失策記録は712回で止まったが監督の高木守道及びコーチの徳武定祐が現役時代に記録した数字を上回るものだった(この記録は後に関本賢太郎に破られる)。1…
読売ジャイアンツの広岡達朗遊撃手です。 監督としても有名な人なので、説明は不要でしょう。 1954年成績 .314(341-107) 15本 67打点 出塁率.409 OPS.923 新人王 ベストナイン 守備職人、送球C 守備が上手要素。補殺多くないから守備力は低め。 人気者 早大…
自己最多の16本塁打を放ち、シーズン守備機会連続無失策記録を更新 6月11日からシーズン守備機会連続無失策を続け、それまでの記録を更新。シーズン守備率.997を残し、記録を継続したままシーズンを終える。このシーズンはキャリアハイの16本塁打を記録した…
近鉄パールスの鈴木武遊撃手です。 パ・リーグ最多の44失策を記録するものの、71盗塁を記録し盗塁王を獲得する。鈴木はスパイクシューズに出資を惜しまず、バッグの中には晴天用と雨天用の2種類のスパイクを常備していた。当時の南海ホークス監督・鶴岡一人…
二塁手に転向。しかし怪我に苦しむ1年に この年就任した高木守道監督に自ら志願し、二塁手に転向。キャンプで右の前腕を痛め、そのまま4月4日の開幕戦に出場。試合後、右腕をアイシングしたところ必要以上に腕を氷水に漬けてしまい、その結果人差し指が凍傷…
マンツーマンで天知野球を勉強。「名参謀」の基礎をつくった 1951年に中日ドラゴンズに入団。華麗な守備を見せる遊撃手として活躍し1954年のリーグ優勝及び、初の日本一に大きく貢献した。1959年限りで引退。1960年に中日のコーチに就任。開幕戦直前の練習中…
プロ4年目で初の全試合出場を果たす オールスターゲームに自身初の監督推薦で出場するなど活躍。前年より成績は落とすも、131試合に出場し、初の全試合出場を果たす。(130試合制ではあったが、引き分けは再試合することになっていた)また得点はリーグ1位…
「花の28年組」の代表。シュート打ちの名人・井上登 岡崎高校卒業後、1953年に名古屋ドラゴンズへ入団。球団名が「中日ドラゴンズ」になった1954年からレギュラーに定着し、俊足・巧打の二塁手として同年のリーグ優勝・日本一に貢献。シュート打ちの名手であ…
怪我から復活。規定三割を達成し、大きな自信に 1990年は痛み止めを飲み続けながら試合に出続け、遊撃手のポジションで128試合に出場。復活を遂げ主にリードオフマンとして活躍し、同年シーズン打率.303、155安打を残す。開幕戦に本塁打を放ったことが不安を…
グラウンドの先生、杉下茂にピッチングのすべてをたたき込んだ アマチュア、プロの両方の公式野球で延長試合の最長を記録した試合に出場した唯一の野球選手である。 戦前は本職は捕手ながら人員不足から主に投手として活躍した後、兵役で肩を壊したため一塁…
ケガに苦しんだ二年目も、最後に光明 二年目は前年春に痛めた右肩の故障の影響で開幕を二軍で迎え、結局シーズン30試合出場にとどまる。星野の意向により一度は手術が決定し8月に渡米するが、診察したフランク・ジョーブは手術を見送り、「肩のまわりの筋肉…
盲腸で2安打した豪傑。カーブ打ちの主砲・児玉利一 大分商業学校時代にセンバツ出場。 その後明治大学に進学し4番として活躍。全大分から1951年に32歳の年齢で名古屋ドラゴンズに入団。この年は内野手としてプレーしつつ、投手としても数試合投げた。翌年か…
高卒野手最後の新人王、唯一のゴールデン・グラブ賞 今日から22日間、2代目「ミスタードラゴンズ」立浪和義選手の、ルーキーイヤーの1988年から引退した2009年までの22年分を公開します。 現時点でセリーグでは最後の高卒野手での開幕戦先発出場を果たし、同…
千葉茂を怒らせた守備の名手。球団初のサイクル男原田徳光 中京商業学校から明治大学、社会人野球の東洋産業を経て、1948年中日ドラゴンズへ入団。 1年目から主力選手として活躍。3年目には初の打率3割到達。1953年8月17日の巨人戦で中日選手初のサイクルヒ…
元祖ビジュアル系・切り込み隊長「パラちゃん」こと、本多逸郎 「パラちゃん」というのは、「パラダイス」の略であり、チームで若かった本多が豊橋の試合までのボールの運搬係頼まれたが、試合を放りだして、地元で催されていた「犬山パラダイス」を見に行っ…
近鉄パールスの日下隆外野手です。 1954年には近鉄の野手で初めてオールスターゲームに出場。47試合に四番打者として起用され、自己最高の打率.296を記録し、ベストテン6位に喰い込む。同年の23補殺は外野手最多補殺日本記録。 1953年にキャリア唯一の本塁打…
大友工投手です。 オールスターファン投票選出選手はこれで終わりです。 1954年成績 防御率1.68 21勝15敗 199奪三振 278.2投球回 48登板 17完投 5完封 9与死球 内角攻め 最多与死球だから良いのではないでしょうか。
「仏の徳さん」、飯田徳治一塁手です。 一塁守備でのワンバウンド送球に対するグラブ捌きは、戦前の名一塁手・中河美芳の跡を継ぐ「タコ足二世」と呼ばれた。ショートバウンドの処理は抜群で、それまであまり問題にされなかった一塁手の守りの重要性を飯田は…
「球界の紳士」と呼ばれた別当薫外野手です。 1950年には打率.335、43本塁打、105打点を記録して本塁打王、打点王を獲得、更にはシーズン20回の猛打賞(球団記録)。パ・リーグ初代MVPにも選出され、第1回の日本シリーズ(対松竹戦)でも打率.500、3打点でこ…
その強肩ぶりは「バカ肩」と呼ばれ、「イダ天」とも称された俊足と相まって人気が高かった木塚忠助遊撃手です。 守備は堅実というより華麗、守備範囲が広いうえに送球への流れの中で捕球し、矢のような球を投げた。 1954年成績 .253(443-112) 7本 30打点 37…
「カーリー」広田順捕手です。 1952年に来日し読売ジャイアンツに入団。1年目から79試合にマスクを被って正捕手となり、オールスターゲームにも出場する。翌1953年から1955年まで3年連続でベストナインを受賞するとともに、新人から4年連続でオールスターに…
1952年に南海へ入団。「百万ドルの内野陣」のうち、飯田徳治・蔭山和夫・木塚忠助らがまだ現役だったが、二塁手・三塁手・遊撃手などをこなせるユーティリティープレイヤーだったこともあり、1年目から一軍で起用される。1953年には主に遊撃手として46試合に…
1951年にはシーズン18三塁打の日本記録を樹立した金田正泰外野手です。 1954年成績 .309(463-143) 4本 35打点 28盗塁(.737) 10三塁打 流し打ち、ローボールヒッター 港の星達さんのをパクったのでよくわかんないです。
「和製火の玉投手」、荒巻淳投手です。 1950年に毎日オリオンズへ入団。1年目から26勝8敗、防御率2.06の好成績を挙げ、新人王、最多勝利、最優秀防御率のタイトルを獲得し、日本一の立役者になる。細身の体で小躍りするようなフォームから投げる球はホップし…
「猛牛」千葉茂二塁手です。 1954年成績 .252(433-109) 7本 48打点
国鉄スワローズの宇野光雄三塁手です。 巨人から移籍し、コーチ兼任の傍ら、4番打者として打率.291(リーグ12位)を記録し、ベストナイン三塁手のタイトルを獲得する。また、宇野は対巨人戦で打率.338を記録したが、チームも同年4月4日から6月20日まで巨人相…
高卒ルーキー1年目にして開幕投手に指名され勝利投手。球宴までに12勝を挙げ、ファン投票で1位で選ばれる。同年は55試合に登板し20勝を挙げるも、新人王争いは宅和本司(南海)に敗れる。ルーキーで20勝しながら新人王に選ばれなかったのは、現在も梶本ただ…
1954年に毎日オリオンズに入団し、来日。 1954年・1955年と2年連続でオールスターゲームに出場し、同じく2年連続でベストナインにも輝いた。純粋な外国人捕手でベストナインのタイトルを獲得したのはルイスだけである(日系人を含めると広田順がベストナイン…
入団3年間は投手として61試合に登板し、4勝10敗。選手不足から毎年内野手としても数試合出場した。1953年は投手として30試合に登板した以外に、内野手と代打でも36試合に出場し、打率.272(92打数25安打)。 4年目の1954年から自ら監督に申し出て打者に専念…
エースから主軸への華麗なる転向。初代「ミスタードラゴンズ」、永久欠番「15」 1954年は打撃コーチ兼任で主砲として、チーム初のセ・リーグ優勝と日本一に貢献した。 投手・打者として活躍したというだけでも稀有な選手(他には同時期に同チームで活躍した…