エースから主軸への華麗なる転向。初代「ミスタードラゴンズ」、永久欠番「15」
1954年は打撃コーチ兼任で主砲として、チーム初のセ・リーグ優勝と日本一に貢献した。
投手・打者として活躍したというだけでも稀有な選手(他には同時期に同チームで活躍した服部受弘や、近鉄、巨人で投手・打者として活躍した関根潤三など)だが、その双方でレベルの高い活躍を見せた。後年の二刀流・大谷翔平のような投手・打者の同時進行というわけではないが、投手として20勝(1940年)、打者として40本塁打(46本塁打、1950年)の双方を記録したのは日本プロ野球史上では西沢だけである。
バットは、川上哲治も驚くほど極端にグリップの細いものを使っていた。そのため、長谷川良平のシュートには何本もバットを折られ、ある時長谷川に「これ以上シュートを投げないで欲しい」と懇願したという。
1954年成績
.341(498-179) 16本 80打点
対左投手C
16本塁打中6本が左投手。右のプルヒッターは左投手が得意なイメージがある。
ケガしにくさE
当時の選手名鑑動画を見ていたら「例年怪我に左右され全力を出し切れない」とあったので。
送球E
投手時代非常に四球が多かったので。
アベレージヒッター
3割4分超えてるし3年高打率だからよいかなと。
プルヒッター
「伝える わたしが見てきた80年」に「右手の力が想像を絶するほど強かった」から、「内角高めを得意とする引っ張り専門の打者だった」ので、「相手は三遊間やレフト寄りを厚めに守ったほどだ」とある。
固め打ち
猛打賞19回。去年話題になった月間猛打賞記録8回も記録。
逆境〇
上記と同じ本に1954年に9回裏ビハインドから同点ホームランを放ったことを例に挙げ、「打ってほしいときに打ってくれる、本当に頼りになる人だった。」とある。
1950年に満塁本塁打5本の日本記録。やはり外せないだろう。
併殺
16併殺。