盲腸で2安打した豪傑。カーブ打ちの主砲・児玉利一
大分商業学校時代にセンバツ出場。
その後明治大学に進学し4番として活躍。全大分から1951年に32歳の年齢で名古屋ドラゴンズに入団。この年は内野手としてプレーしつつ、投手としても数試合投げた。翌年からは定位置を確保し主力として活躍。
1954年は西沢道夫、杉山悟と強力クリーンナップを組み、リーグ優勝及び日本一には4番・三塁手として貢献した。1955年と1956年にベストナインを獲得した。
1957年に大洋ホエールズへ移籍。1958年に引退した。引退後は1976年に大洋でコーチを務めたほか、フジテレビ・関西テレビ・東海テレビ・広島テレビ(クロスネット時代にFNS向け)・テレビ西日本・東海ラジオでプロ野球解説者としても活躍した。特に、相次ぐ現場復帰でフジテレビ系列局の解説者が不足した時期には大部分の全国中継を担当していた。
カーブを打つのが上手く、「カーブ打ちの名人」と言われていた。
2008年9月3日、前立腺癌のため死去。享年89。
1954年成績
.272(353-96) 10本 47打点
ケガしにくさE
それなりに欠場している。
粘り打ち 慎重打法
「ファウルで粘って、自分の好きな球が来るまで待つというタイプ。」(杉下茂「伝える」より)
いぶし銀
「しぶとい打撃で、不思議と勝負どころで打つんだ。」(杉下茂「伝える」より)
対変化球〇
「カーブ打ちの名人でね。速いボールはダメだったが、カーブには滅法強かった。」(杉下茂「伝える」より)