四日市商業高校を卒業後、1951年に名古屋ドラゴンズに入団。名古屋(中日)では目立った活躍はできず、1955年にトンボユニオンズに移籍した。1956年、突如として大ブレイク。それまで通算3勝であったにもかかわらず、先発・リリーフにフル回転で21勝を挙げる大活躍でオールスターゲームにも出場した。
高橋ユニオンズが大映スターズと合併した事を受け、1957年に近鉄パールスに移籍。しかし、その後は低迷。1960年に南海ホークスに移籍し、1961年に引退。引退後は鶴岡一人に請われて南海の東海地区常駐スカウトに就任、のちチーフスカウトを務め、1997年に退任するまで新井宏昌、柏原純一、斉藤和巳ら、多くの名選手を獲得した。
1956年成績
防御率2.00 21勝 19敗 177奪三振 323.2投球回 65登板 36完了
変化球
『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』にはフォークのみ。このフォークは中日時代に杉下茂直伝されたと書いてあった。現役時代にフォークを教えてる話は初めて聞いたかも。
『消えた球団 高橋ユニオンズ 1954-1956青春のプロ野球 (野球雲6号)』では同僚の青木惇捕手が大きく曲がるスライダーとシュートと証言。
ネットではカーブが武器、シュートを投げ、スライダーも投げるか?
以上のような情報だったので今回の形で。
後はこんな感じ。詳しくは『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』買おう!面白いよ。
36完了は当時のパリーグ記録。再集計したら12セーブになるらしい。
先発で平均7回投げたとしても、リリーフで平均4イニング近く投げてることになるのはすごい。