湘南高校で夏の第31回全国高等学校野球選手権大会に1年生ながら出場し優勝。関東圏の高校が優勝したのは第2回大会の慶應普通部以来33年ぶりで、「深紅の優勝旗が箱根の山を越えた」と話題になった。監督の佐々木久男は彼の父親であった。後に高野連会長を務めた脇村春夫は1学年上である。
その後、慶應義塾大学に進学。野球部では、後に読売ジャイアンツ監督となる藤田元司投手と同期で、二塁手としてレギュラー、4年次には主将を務めた。特に慶早戦では大活躍し、「慶早戦男」と呼ばれた。リーグ通算67試合に出場し235打数58安打、2本塁打、26打点、打率.247。
大学卒業後は当時北海道にあった東洋高圧の野球部に入部する予定であったが、高橋ユニオンズの誘いを受けたため、1956年にユニオンズに入団。同年、新人ながら154試合に全イニング出場した。154試合出場はシーズン試合出場の日本タイ記録(他は同年の飯田徳治、杉山光平)。また、新人での全イニング出場は史上初(後に1958年の長嶋茂雄、1961年の徳武定之、2017年の源田壮亮、以上4名が記録)。同年、622打数(日本歴代3位)でリーグ最多の180安打(同34位)を放った。併せて同年は141単打を放っており、この3つの記録は現在も新人記録として残っている。ベストナインにも選出されたが、新人王は21勝、防御率1.06を記録した稲尾和久(西鉄ライオンズ)に敗れ、受賞を逸した。なお、高橋ユニオンズの選手のベストナイン選出はこの年の佐々木が唯一である。
1956年成績
.289(622-180) 6本 37打点 34盗塁(.618)
チャンスF
打点の少なさ+チャンスメーカーの補填。
まあ弱いチームの1番はこんなもんなのかもしれないけど、打席がかなり多いのでね。
対左投手B
全本塁打の半分の3本が左投手から。ちなみに高橋ユニオンズ公式戦最後のホームランを荒巻淳から放っている。
ケガしにくさC
154試合フルイニング。
流し打ち
高校時代、練習場所はサッカー部と共用で、野球部が外野として使っていたエリアにサッカー部がはみ出してくることもしばしばだったという。そこでサッカー部の嫌なヤツにぶつけてやろうと思った。それが石原慎太郎だった。「ライトまで出て来るから背中に当ててやろうと右打ちを練習したよ。うまくなったのはあいつのおかげだな」。
逆境◯
負けるのが当たり前の弱いチームの中でも、「腐ってたまるか!」と孤軍奮闘。
人気者
当時プロ野球より人気だった大学野球のスター選手であり、高橋ユニオンズでは唯一の全国区の人気選手だった。大学時代はかなりモテたそう。