青竹龍尾〜パワプロ選手館〜

パワプロで選手を作ってます。

ビル・バーゲン 【パワプロ2018】

MLB史上最低の打者

打撃能力が極めて低く、打撃においていくつかのメジャーリーグ最低記録を残したため、しばしば「史上最低の打者」と評される。ただし守備能力は高く、守備に関してはメジャーリーグ史上屈指の捕手であるとも評される。

 

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全体としては試合数やfangraphsのWARなどから一番良い成績と思われる1908年をベースにしてますが、通年査定です。

打撃

ミートは1903年に打率.227と好成績を残しているので高く。しかしオーペナで安定して2割打ててしまうので、高くしすぎたかもしれない。ここはMLB補正ということで。

本塁打0本の選手のパワーはよくわからない。

走力

現代の感覚では三塁打が多く思えるかもしれないが、当時としては特に多くなく、盗塁も少ないのでこの辺りで。

守備

肩力は逸話が多いのでかなり高く、守備力も高く。

捕球は守備率自体は低いが、評価が高いことと、1908年の守備率.989は当時のMLB記録であることから高めに。

キャッチャーC
チームが弱いので迷ったが、捕手として守備面が評価されていることから付けるべきだと思った。

盗塁E

fangraphsのwSBが低かったので。

送球C

Baseball-Referenceにリーグ平均盗塁阻止率45%とあり相対的に高くないのと、バズーカ送球があるので抑えた。

バズーカ送球

マイナーリーグのフォートウェイン・インディアンズ時代には、チームが無死満塁というピンチを迎えた際、塁上の3人の走者すべてを牽制球で次々とアウトにしたこともあった。
1909年8月23日のセントルイス・カージナルスとの試合でバーゲンは6つの盗塁阻止を記録し、これは単独試合の最多盗塁阻止記録として現在まで残っている。バーゲンの通算盗塁阻止率は47.3%であり、1906年と1909年にはナショナルリーグ最多の盗塁阻止数を挙げている。
メジャーリーグ在籍11年に対して通算出場は947試合であり、毎試合必ず先発出場するような選手ではなかったが、捕手として歴代9位タイの通算1444補殺を記録している。また11年間でシーズン100補殺を9回記録している。これは在籍18年間で10回記録したレイ・シャークに次いで史上2番目に多い。

ささやき戦術

頭脳的な面でも優れた捕手であった。ニューヨーク・ジャイアンツのラリー・ドイルがメジャーリーグに昇格して間もない頃、バーゲンは打席のドイルにいかにも親切そうに話しかけて得意コースや好きな球種を聞き出し、裏をかいてドイルを抑えたという。

 

高橋(トンボ)ユニオンズ 【パワプロ2018】

最弱球団

1954年からわずか三年間、パ・リーグの一員として存在した「高橋ユニオンズ」。1957年に「大映スターズ」に吸収合併されて消滅した”幻の球団”にして、通算勝率わずか.344という”最弱球団”だ。(『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』裏表紙より)

 

 

登録選手 

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ユニオンズでの通算で投手なら30投球回、野手なら60打席以上出場した、投手17名野手35名のキャリアハイを寄せ集めたものになっています。そのため年齢関係などは現実と異なっています。なお三瀬内野手と川口外野手は顔が不明なので、分かる方がいたら教えてください。

「ユニオンズ」タグから各選手をダウンロードできるので、もしよろしければ。

 

名前・デザイン

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帽子も旗も本来はTとUを組み合わせたものなのですがパワプロでは再現不可能なのでUのみです。

川崎球場にあう大きさのものはないです。横浜スタジアムでもいいかもしれません。

 

パワナンバー

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23600 50060 14348

 

監督・コーチ

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ベースコーチは不明なので、選手ではユニオンズ在籍していない唯一のコーチの上林繁次郎と監督も務める笠原和夫にしました。

 

投手起用法

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当時の投手起用は再現不可能です。

 

野手オーダー

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実際に務めた打順などから決めました。対左投手オーダーはベストから大きく入れ替えてみました。

ビクトル・スタルヒン (1955) 【パワプロ2018】

前人未踏の300勝

通算294勝で迎えた1955年。好投すれどもなかなか勝ちが付かなかったが、9月4日に完投勝利で300勝を達成した。

詳しくは『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』を読もう!

 

1955年成績

防御率3.88 7勝21敗 56奪三振 196.2投球回

.252(111-28) 0本 23打点

 

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変化球

ストレートは見せ球にカーブ、スライダー、シンカー、アベックボール(後述)を投げていた。

ありとあらゆる球種を駆使している感じを出すために4球種。決め球はアベックボールとの記述があったが、イメージ的にドロップを最大変化に。

アベックボール

『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』に「フォークのようであり、行き先不明なナックルのような、揺れながら落ちる球だった。」とある。由来は「あっちに行ったり、こっちに行ったり、ふらふらしている男と女のよう」とあるが詳細は不明。

今回はナックルで代用。

対ピンチE

判定表から。LOB%も良くない。

対左打者B

2年間左打者からの被本塁打無し。

打たれ強さC

300勝目の完投勝利もそうだが、被安打が多い中で投げているので。成績が良くないので低めに。

ノビE

球速をかなり落としたので不要かとも思ったが、奪三振率や被安打率が悪いので。

打球反応◯

併殺が多い。

緩急◯

色々な球種を使って抑えてる。決め球のストレートは速かったらしい。

チャンスB

打点が異常に多い。

走塁E

得点が異常に少ない。

代打◯

代打起用回数筆頭の39回。前年も21回。

一塁適性

54年は8試合、55年には2試合、一塁手として出場。スタメンもある。

伊藤四郎 (1956) 【パワプロ2018】

四日市商業高校を卒業後、1951年に名古屋ドラゴンズに入団。名古屋(中日)では目立った活躍はできず、1955年にトンボユニオンズに移籍した。1956年、突如として大ブレイク。それまで通算3勝であったにもかかわらず、先発・リリーフにフル回転で21勝を挙げる大活躍でオールスターゲームにも出場した。
高橋ユニオンズ大映スターズと合併した事を受け、1957年に近鉄パールスに移籍。しかし、その後は低迷。1960年に南海ホークスに移籍し、1961年に引退。引退後は鶴岡一人に請われて南海の東海地区常駐スカウトに就任、のちチーフスカウトを務め、1997年に退任するまで新井宏昌、柏原純一、斉藤和巳ら、多くの名選手を獲得した。

 

1956年成績

 防御率2.00 21勝 19敗 177奪三振 323.2投球回 65登板 36完了

 

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変化球

『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』にはフォークのみ。このフォークは中日時代に杉下茂直伝されたと書いてあった。現役時代にフォークを教えてる話は初めて聞いたかも。

『消えた球団 高橋ユニオンズ 1954-1956青春のプロ野球 (野球雲6号)』では同僚の青木惇捕手が大きく曲がるスライダーとシュートと証言。

ネットではカーブが武器、シュートを投げ、スライダーも投げるか?

以上のような情報だったので今回の形で。

 

後はこんな感じ。詳しくは『最弱球団 高橋ユニオンズ青春記』買おう!面白いよ。

36完了は当時のパリーグ記録。再集計したら12セーブになるらしい。

先発で平均7回投げたとしても、リリーフで平均4イニング近く投げてることになるのはすごい。

浜崎真二 (1948) 【パワプロ2018】

球界彦左

選手兼任監督として日本プロ野球史上最高齢公式戦出場記録を山本昌に破られるまで、64年間にわたり保持していた。現在でも得点、安打、二塁打三塁打、打点、盗塁のNPB最年長記録、試合出場、先発出場、打席、登板、先発登板、勝利のパリーグ最年長記録を保持しているなど、打撃や走力にも優れた選手。

プロ野球だけでなく、中等学校野球、早慶戦都市対抗野球でも活躍し、戦前のアマチュア時代は左利きの“小さな大投手”として日本球界をリードした一人であった

 

1948年成績

防御率2.51 3勝 3敗 10奪三振 17登板 60.2投球回

.316(19-6) 0本 1打点 2二塁打

 

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球速

中学、大学時代は本当に速かったらしいが、年齢を考えかなり遅く。

変化球

ナチュラルシュートとカーブを武器にしていた。速球を右打者の外角低めに投げると、シュート回転して空振りも凡退も取れる球になり、インカーブも絶品。

回復E

年齢を考えて。1941年の明治神宮大会で2試合連続完封勝利して「41歳(数え年)の奇跡。」と書かれたりしているのでEに。

闘志

マウンドで叫んでいたらしい。

緩急◯

3球敬遠のようなボール球を投げてから勝負したり、相手を翻弄。「40代には40代のピッチングがある。」

回またぎ◯

17登板4先発完投0で60.2イニングはとても多い。

佐々木信也 (1956) 【パワプロ2018】

プロ野球ニュース

湘南高校で夏の第31回全国高等学校野球選手権大会に1年生ながら出場し優勝。関東圏の高校が優勝したのは第2回大会の慶應普通部以来33年ぶりで、「深紅の優勝旗が箱根の山を越えた」と話題になった。監督の佐々木久男は彼の父親であった。後に高野連会長を務めた脇村春夫は1学年上である。

その後、慶應義塾大学に進学。野球部では、後に読売ジャイアンツ監督となる藤田元司投手と同期で、二塁手としてレギュラー、4年次には主将を務めた。特に慶早戦では大活躍し、「慶早戦男」と呼ばれた。リーグ通算67試合に出場し235打数58安打、2本塁打、26打点、打率.247。

大学卒業後は当時北海道にあった東洋高圧の野球部に入部する予定であったが、高橋ユニオンズの誘いを受けたため、1956年にユニオンズに入団。同年、新人ながら154試合に全イニング出場した。154試合出場はシーズン試合出場の日本タイ記録(他は同年の飯田徳治、杉山光平)。また、新人での全イニング出場は史上初(後に1958年の長嶋茂雄、1961年の徳武定之、2017年の源田壮亮、以上4名が記録)。同年、622打数(日本歴代3位)でリーグ最多の180安打(同34位)を放った。併せて同年は141単打を放っており、この3つの記録は現在も新人記録として残っている。ベストナインにも選出されたが、新人王は21勝、防御率1.06を記録した稲尾和久西鉄ライオンズ)に敗れ、受賞を逸した。なお、高橋ユニオンズの選手のベストナイン選出はこの年の佐々木が唯一である。

 

1956年成績

.289(622-180) 6本 37打点 34盗塁(.618)

 

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チャンスF

打点の少なさ+チャンスメーカーの補填。

まあ弱いチームの1番はこんなもんなのかもしれないけど、打席がかなり多いのでね。

対左投手B

本塁打の半分の3本が左投手から。ちなみに高橋ユニオンズ公式戦最後のホームランを荒巻淳から放っている。

ケガしにくさC

154試合フルイニング。

流し打ち

高校時代、練習場所はサッカー部と共用で、野球部が外野として使っていたエリアにサッカー部がはみ出してくることもしばしばだったという。そこでサッカー部の嫌なヤツにぶつけてやろうと思った。それが石原慎太郎だった。「ライトまで出て来るから背中に当ててやろうと右打ちを練習したよ。うまくなったのはあいつのおかげだな」。

逆境◯

負けるのが当たり前の弱いチームの中でも、「腐ってたまるか!」と孤軍奮闘。

人気者

当時プロ野球より人気だった大学野球のスター選手であり、高橋ユニオンズでは唯一の全国区の人気選手だった。大学時代はかなりモテたそう。

ドン・ブッサン (1955) 【パワプロ2018】

1955年前年帰国したジミー・マケーブの穴を埋めるために高橋ユニオンズ(トンボ)へ入団。 これは本人自らの強引な売り込みによるものだった。
当初は3番を期待された。しかしあまりの確実性のなさから打率が低迷した。また、高橋が弱小球団と言うのもあったのか無気力プレーが目立った。しかし当時は外国人がまだまだいなかったためサル・レッカ共々人気はあった。
打撃は「当たれば飛ぶ」が確実性に欠け、打率が低迷した。しかし、長打は魅力だったことは確かであり、188打数で6本塁打(チーム2位)を記録している。
守備は外野を守る際一歩前進してからバックしていた。ある日レフトへのゴロヒットをトンネルしてしまい塀に向かって走ったが、塀に当たってはね返ってきたボールをまたトンネルし、ショートが拾うという珍プレーをした。

ちなみに、自称金満家らしく「報酬はどうでもいい」と豪語し、帝国ホテルの一室で暮らしていたらしい。報酬は月10万円だったそう。

 

1955年成績

.223(188-42) 6本 26打点

 

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肩力 送球F
外野補殺多い時代で0はね。

対左投手B

なんとホームランの5/6本が左投手から。打席少ないのでBに留めておいた。

ケガしにくさE

なぜかシーズン後半欠場してるのでそうなのかなと。詳しい方はお教えください。

 

一体どうしてシーズン途中に背番号変更があったのだろうか。