森山良二 (1988) 【パワプロ2018】
打者としての素質にも定評があったが投手となり、1年目の1987年の自主トレーニングの段階から優れた身体能力を発揮し、森祇晶監督にはバランス能力の高さを評価されている。9月10日に一軍初登板を果たすと10月13日にはプロ初先発で初勝利を挙げた。同年の日本シリーズでは第1戦でリリーフとして登板し、1イニングを1安打無失点に抑えている。
2年目の1988年は東尾修の出場停止や小野和幸の移籍もあって先発ローテーションに入り、パームボールを武器に前半戦だけで8勝を挙げてローテーションに定着した。後半戦はパームの制球に苦しんだがシーズン通算で10勝し、同年の日本シリーズでは、第4戦で最少被安打のシリーズタイ記録となる2安打完封勝利[10]を収めて優秀選手賞を受賞した。これらの活躍が評価されて新人王を獲得し、オフには1000万円増の年俸1500万円(推定)で契約を更改している。
しかし1989年はひじと肩の故障から2試合のみの登板に終わり、1990年はオープン戦で好投して先発復帰を目指したものの未勝利となった。1991年頃から軟投派への転向を目指し、1993年開幕直前の3月24日に清水義之との交換トレードで中村日出夫と共に横浜に移籍した。横浜では中継ぎやローテーションの谷間の先発を任され、6月6日の対中日戦で5年ぶりに先発勝利を挙げている。その後、1995年限りで現役を引退した。
1988年成績
新人王
球速
Wikipediaでは最速143km/hと書いてあるが日本シリーズで146km/hを計測している。
闘志
1988年のオープン戦で中日相手に好投した時、星野仙一監督が試合後のインタビューで「何であんなわけ分からんピッチャーに抑えられるんや」とボヤいた。この事が同年日本シリーズ第4戦の完封へと繋がった。試合中ベンチに戻る度に中日ベンチを睨み付けていたと言う。その後、2011年には、コーチを務める楽天の監督に星野が就任することになる。
ジム・ドゥール (1954) 【パワプロ2018】
この年創設された新球団高橋ユニオンズに入団。7月18日の東映フライヤーズ戦で初勝利。3勝のうち2勝を完封で飾る活躍を見せるが、8月26日に"右肩痛"を理由として突然帰国。実際はドゥールの本職はハワイの学校の教員であり夏休みを利用した2カ月の短期契約で来日、球団側も野球協約に違反しているのを承知で契約したと言われる。
1954年成績
変化球
球は遅かったが、カーブ、ナックル、落ちるシュートを投げていた。直球も変化させていたとのことなので、シュートをツーシームに。
対ピンチB
対ピンチ判定表より
対左打者C
左打者からの被本塁打0。
ケガしにくさF
実際にケガしてたわけではなさそうだが、ケガを理由に退団しているので。
ノビE→軽い球
変化球多投しているので。→被安打率がいいのでなし。その代わりというか、よく見たら被本塁打率が良くはなかった。
尻上がり、スロースターター
7先発中初回に失点したのが5回で合計9失点と、大半の失点が初回(全失点19)。3完投2完封しているように中盤以降の失点は少ない。
石川克彦 (1954) 【パワプロ2018】
アウトローへの制球は天下一品。21勝で初優勝に貢献
岡崎高校ではエースとして活躍。1951年夏の甲子園県予選では準々決勝で時習館高に敗退、甲子園には出場できなかった。高校同期に小沢重光、1年下に井上登がおり、いずれもプロ野球で同僚となる。
1952年に名古屋ドラゴンズに入団。2年目の1953年には杉下茂に次ぐ先発投手として活躍。18勝4敗、防御率1.09(3位)の好成績を残し、勝率.818で最高勝率のタイトルを獲得。翌1954年は開幕投手として起用され21勝を記録、リーグ初優勝に貢献した。西鉄との日本シリーズでは2試合に先発し1勝1敗、チーム日本一に力を添えた。
1955年にも17勝をあげ3年連続2桁勝利、防御率1.45(2位)を記録。2年連続で開幕投手となり5連続完投勝利も記録している。しかし、その後は故障もあって登板回数が減り、1959年限りで引退した。
1954年成績
球速
杉下茂氏が自分より速く、150キロは出していたと思うといってる。
変化球、ノビB、ポーカーフェイス
以下の文章中に「ちょっと類の少ない速球で外角をつく球が三種類一つはのびる(ホップする)球一つは沈む球、もう一つはスライドする球、これが大きな効果をあげているが、これに加えて上手からのカーブがするどく落下するし、スリー・クォーターで投げる内角へのシュートが落ちる」とあるのでそれらしく。
「打たれても、好調でも淡々としている。いい球と思ったのがボールに判定されてもムキになったり、妙な顔つきを見せたことがない。」
元中日の石川克彦投手を知ってますか? - 1954年岡崎高出身で二十歳。五尺九寸... - Yahoo!知恵袋
低め◯
初球をアウトローにビシッと決めてたと、杉下さんが褒めてたので。
市川和正 (1988) 【パワプロ2018】
忍者打法ー東の市川
トリックプレーを数多く実践し、時には審判の目をも欺くことから「球界の詐欺師」の異名をとった。同様にトリックプレーの達人として知られた達川光男とは「東の市川、西の達川」と呼ばれ、しばしば比較された。
ハーフスイングをごまかす「忍者打法」は3年がかりで開発し、「究極の見逃し」と名付けたと本人が語っている。これはスイングを止める動作を、瞬時に全く違う動作の流れにスイッチすることで眼の錯覚を狙う。バットをヌンチャクのように回す、その場で一回転するなど、そのバリエーションの多彩さは「プロ野球珍プレー・好プレー大賞」において「ポーズだけを見たら野球に見えない」と評された。
1988年成績
.282(234-66) 6本 37打点
チャンスC
得点圏打率は不明。234打数で37打点は多いと思う
粘り打ち
忍者打法。実際三振少ない
(中日キラー)
中日戦.354 17打点
1試合で4回盗塁阻止したこともあった。
◯◯キラーを独占するKONAMIを許すな。