青竹龍尾〜パワプロ選手館〜

パワプロで選手を作ってます。

ビル・ガリクソン (1988) 【パワプロ2018】

MLB通算162勝

有名な選手なので省略。

 

1988年成績

防御率3.10 14勝9敗 203.1投球回 134奪三振 14完投

 

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SFF

桑田に教えたらしいよ。

打たれ強さB

打たれても淡々と投げてた。

球持ち◯、緩急◯

遅いリリースポイントからストレートを活かす投球。

調子極端

開幕4連勝から5月に入って4連敗したりと月ごとに成績にムラがあり連勝連敗が多い。この傾向はMLB時代から。

 

パワターの肌の色を黄色のままに成っているので白の2にして下さい。

ダグ・デシンセイ (1988) 【パワプロ2018】

東京ドーム第1号本塁打

1970年のMLBドラフト3巡目でボルチモア・オリオールズに指名され契約。1973年9月9日の対クリーブランド・インディアンス戦(クリーブランド・スタジアム)の7回表にブルックス・ロビンソンの代走として出場しメジャーデビューを果たす。1976年に三塁手のレギュラーに定着。1979年にはワールドシリーズに出場し、第1戦で本塁打を放つ。
1982年にカリフォルニア・エンゼルスにトレードされると、同年は打率.301、30本塁打、97打点と活躍し、シルバースラッガー賞を獲得。翌1983年にはMLBオールスターゲームに出場した。以後、1987年にジャック・ハウエルに三塁の定位置を奪われるまでエンゼルスの正三塁手として活躍した。シーズン途中の9月にエンゼルス解雇後、シーズン残り7試合でセントルイス・カージナルスと契約。地区優勝を争っていたカージナルスはジャック・クラークの故障で4番打者不在となり、急遽獲得した。チームは地区優勝を果たしたが、プレーオフ出場資格がなかった(プレーオフに出場するためには8月31日までに契約し、チームに帯同していなくてはならない)。
1988年、1月20日NPBヤクルトスワローズへの入団が発表された。38歳と年齢的な衰えは隠せなかったが、それでもNPB初打席初本塁打・東京ドームの公式戦第1号や、史上5人目の2試合連続サヨナラ本塁打(2試合とも1点ビハインドで9回裏2死一塁という場面だった。2試合連続逆転サヨナラ本塁打は史上初)を放ち存在感を示した。同年限りで現役を引退。

 

1988年成績

.244(291-71) 19本 44打点

 

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対左投手B

不明なのでカメハさんに倣って前年のMLBでの成績を参考。

対右投手.207 9本 38打点 OPS.645 339打席

対左投手.282 7本 26打点 OPS.870 200打席

ケガしにくさF

80年頃からヘルニア持ちで、それがMLBで契約取れずに日本に来た一因でもあり、結局8月頃に治療で帰国してそのまま契約解除になって引退。

送球C

守備が良かったらしい。実際MLBでも平均以上の守備成績を残している。あと失策が三塁では一塁より少ないので。

プルヒッター

MLBで打球方向が判明している167本中77.2%にあたる129本が引っ張り。

逆境◯

サヨナラ本塁打が2試合とも1点ビハインドで9回裏2死一塁という場面での逆転ということと、昨年MLBで7回以降.294 10本とよく打っており、また少ない出場ながらチーム内2位となる勝利打点8。

エラー

一塁で39試合6失策で守備率.984と悪いが、三塁ではそこそこなので捕球はそれなりに。

 

実はMLB通算のWARが40を超えてる名選手。

 

銚子利夫 (1988) 【パワプロ2018】

銚子高校の銚子くん

元来内野手だったが、市立銚子高校2年生の秋に投手に転向。1979年の夏の甲子園にエースで4番として同校を初出場に導くも、初戦で敗退した。同年秋のドラフトで近鉄バファローズから4位指名を受けたが、拒否した。
法政大学に進学し再び内野手に転向。東京六大学リーグ戦では1982年春季のリーグ戦で首位打者になる。ベストナインは3度受賞した。通算成績は49試合出場、174打数53安打、打率.305、4本塁打、35打点。1983年秋のドラフトで横浜大洋ホエールズから1位指名を受けて入団。1988年には三塁手のレギュラーに定着し、自身最多の125試合に出場。僅か3失策の好守備も光り、ゴールデングラブ賞受賞は間違いないと言われていた。しかし同賞のセ・リーグ三塁手部門は、守備力においては銚子よりも劣ると思われた巨人・原辰徳(126試合出場、10失策ながらも、打撃成績は銚子より遥かに上回っていた)が受賞し、同賞の定義を疑問視する声が各方面で上がった。特に大洋ファンのやくみつるはた山ハッチ)は、当時この件を自身の4コマ漫画で取り上げた。
しかし、翌1989年は11失策を記録してレギュラーの座から後退すると、1990年に清水義之が台頭したことで、以後控えに甘んじてしまった。
1992年に長内孝との交換トレードで広島東洋カープに移籍。1993年に現役引退。 

 

1988年成績

.271(425-115) 0本 23打点

 

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内野安打◯

右打者リーグトップの19本

正田耕三 (1988) 【パワプロ2018】

二年連続首位打者

1988年は春先に外傷性肩峰下滑液包炎を発症し、さらにこれがきっかけで同僚の高橋慶彦との間にトラブルが起きた。この肩痛のため5月12日から2週間にわたり一軍登録を抹消されたが、筋力トレーニングによるリハビリによって復帰。ともに2年連続となるオールスターゲーム出場と首位打者獲得を果たした。なお、シーズン終盤には首位打者を確定させるため監督の阿南準郎がスタメンから正田を外したが、正田本人は「タイトルが取れなくても試合に出たい」と直訴した。

 

1988年成績

.340(394-134) 3本 23打点

首位打者 ベストナイン ゴールデングラブ賞

 

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盗塁F

成功率.571

走塁B積極走塁

リーグトップの三塁打7本

固め打ち

リーグトップの猛打賞14回

バント◯、内野安打◯

リーグ4位の内野安打20本、内バント安打6本

守備職人

87年から5年連続ゴールデングラブ賞

 

 

 

松永浩美 (1988) 【パワプロ2018】

史上最高のスイッチヒッター

自己最高の打率.326を記録し、初のベストナイン高沢秀昭との首位打者争いで敬遠作戦に遭い、11打席連続四球、10打席連続敬遠四球、1試合4敬遠四球ダブルヘッダーで2試合連続)の日本記録となる。松永は最終打席で、到底届かない敬遠のボールに向かってバットを投げて当てにいくことを3度試みたが、いずれもボールには当たらず三振した。

 

1988年成績

.326(473-154) 16本 77打点

ベストナイン

 

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チャンスB

得点圏打率.387

内野安打◯

リーグ1位の21本

エラー

多いよね。正直この特殊能力の付け方わからん

併殺

13本。内野安打◯あるので厳しめに。

 

福良淳一 (1988) 【パワプロ2018】

ザ・二番セカンド

1988年は読売ジャイアンツへ移籍した簑田浩二の後を継ぐ形で背番号が1に変更された。オールスターゲームに初めて出場し、7月30日の対西武戦では山根和夫からサヨナラ満塁本塁打を放った。同月は打率.328、5打点ながらこの本塁打が評価され、自身初の月間MVPを受賞している。またシーズン終盤には9月初旬に3割前後だった打率を約2週間で3割2分台まで急上昇させ、高沢秀昭松永浩美首位打者争いに割って入る活躍を見せた。10月初旬の対ロッテ戦で左肩脱臼により戦線離脱し、打率は.320でリーグ3位にとどまったが、自身初のベストナインに選出されている。この活躍が評価されてオフの契約更改で年俸が3,000万円を超え、第一子も同年に生まれるなど公私ともに充実した一年となった。

 

1988年成績

.320(410-131) 7本 33打点

ベストナイン

 

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ケガしにくさE

上記の通り離脱あり。

固め打ち

猛打賞13回

粘り打ち

三振率.076、BB/K1.58

 

通年要素はないのでデフォとは少し違いますが、OB枠からいなくなってしまったのでよろしければどうぞ。

松浦宏明 (1988) 【パワプロ2018】

ゼロ戦のマツ

船橋法典高校では外野手だったが、2年生時に投手に抜擢。千葉県屈指の本格派投手として注目され、1984夏の甲子園県予選準々決勝に進出するが、成田高に1-0で惜敗する。高校時代は打者としても打順が四番で、通算46本塁打を記録している。同年オフに、ドラフト外日本ハムファイターズに入団。
入団2年目の1986年にはイースタン・リーグで11勝を挙げて最多勝を獲得するものの、一軍登板は1試合のみに終わった。1987年はリリーフで開幕5連勝を挙げる。敗戦処理として登板した直後に打線が活発になり、逆転勝ちを収めるケースが多かったため、ナインやファンからは「逆転のマツ」と呼ばれ、以降は抑えの切り札へ成長する。
1988年には先発投手に転向。15勝5敗4セーブで同僚の西崎幸広西武ライオンズ渡辺久信と並んで最多勝を獲得する。1989年は肘や肩の故障に悩まされるものの、1990年には11勝を挙げてチームに大きく貢献した。この頃は背番号が0だったことから、「ゼロ戦のマツ」と呼ばれることもあった。
1995年シーズン途中に阪神タイガースとのトレードが進められていたが、交渉が折り合わず決裂。その後、岡本透との交換トレードで横浜ベイスターズへ移籍する。同年1勝を挙げ、セ・パ両リーグでの勝利を記録。しかし、チーム事情によりシーズン終了後に退団し、そのまま現役を引退した。
日本ハム時代の同僚・田中幸雄とは一時期、義理の兄弟であった(松浦の妻と田中の妻が双子の姉妹であるため。後に松浦の離婚により義兄弟の関係は解消)。

 

1988年成績

防御率2.76 15勝5敗 153奪三振 169.1投球回

最多勝

 

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変化球

ストレートも含めた4球種すべてが決め球で、対戦相手や状態で同じ球種を続けることも、例えば全球カーブや1球ストレートの後フォーク連投するなど、あったがどれも同じくらい投げていたらしい。

ノビC、キレ◯

すべて決め球&被安打率リーグ2位の.206&奪三振率8.13

奪三振

奪三振率リーグ2位の8.13

勝ち運

前年の「逆転のマツ」&リリーフ多い中で15勝最多勝&勝率.750

四球

与四球率リーグワーストの4.15