ひとこと・たじゅう
珍名プロ野球選手で有名な選手です。
島田商業学校時代、1937年春・夏、1938年春は外野手として、1939年春からはエースとして4季連続、計7回甲子園に出場。1940年夏準優勝。夏の大会では1939年の準決勝、1940年の決勝で2年続けて、嶋清一・真田重蔵のエースを擁した和歌山県の海草中学校の前に惜しくも涙をのんだ。1940年選抜では2回戦で対戦し勝利している。
1941年専修大学へ進学。五大学リーグでは1年春のリーグ戦からエースとしてノーヒットノーランを記録するなど活躍したが、1943年戦争のためリーグ戦が中止。学徒出陣した。1945年海軍特攻艇に配属されたものの出陣しないまま終戦を迎えた。
1946年、セネタースに入団。開幕投手を務めシーズン6勝を挙げる傍ら、野手としても規定打席到達という活躍を見せた。
この年の4月29日の対中部日本戦では当時日本プロ野球歴代2位の13与四死球を記録するものの、中部日本が無死満塁などの場面で1試合で4併殺するなど拙攻に助けられ、野手の失策の1失点にとどめて、自責点0で完投勝利をおさめており、最終的なスコアは6対1。この記録は、1994年7月2日、野茂英雄が西武ライオンズ戦で16与四球完投勝利を挙げるまで、最多与四球勝利投手のプロ野球記録だった。
1946年成績
防御率4.71 6勝 13敗 49奪三振 149投球回 11完投
.232 0本 22打点 18盗塁(.643) 70四球 出塁率.367
全体的に想像上の能力なのであしからず。
変化球
「フライヤーズのミラクル投手、一言多十さんだ。その頃は変化球を多投するピッチャーをミラクル投手と呼んだ」との事なので、3球種で当時メジャーな球種を採用。
ナックルってミラクルっぽいじゃん?
球速
肩力がこんなもんだから。あと変化球主体ということはあまり速くなかったのかなと。
打たれ強さE 乱調 調子極端
完投以外の14登板12先発で約50イニングしか投げてないように早期降板が多く、1イニングに大量失点も多い。ちなみに開幕戦は1アウトも取れずに降板している。(3失点)
逃げ球
本塁打が少ない時代とは言え、被本塁打率0.12は平均0.25の半分以下。
チャンスE
打点少ないと思った。
三振 選球眼 慎重打法
三振率が平均.083に対しワースト3位の.148と多い。また四球率17.2%はリーグ2位であり、待ち球傾向。