ロベルト・クレメンテ 【パワプロ2018】
ヒスパニック系選手の先駆け
通算成績
WAR94.5 AB9454 H3000 HR240 BA.317 R1416 RBI1305 SB83 OBP.359 SLG.475 OPS.834
タイトル
首位打者 4回:1961年(.351)、1964年(.339)、1965年(.329)、1967年(.357)
表彰
アメリカ野球殿堂 表彰:1973年(有資格1年目、得票率92.69%)
コミッショナー特別表彰:2006年
ナショナルリーグMVP 1回:1966年
ゴールドグラブ賞 12回:1961年 - 1972年 ※ウィリー・メイズと並び外野手として歴代最多タイ
ワールドシリーズMVP 1回:1971年
ベーブ・ルース賞:1971年
月間MVP 3回:1960年5月、1967年5月、1969年7月
記録
MLBオールスターゲーム選出 12回:1960年 - 1967年、1969年 - 1972年
メジャーリーグベースボール・オールセンチュリー・チーム ノミネート:1999年
ラティーノ・レジェンズ・チーム 選出:2005年
DHLホームタウン・ヒーローズ 選出:2006年
フランチャイズ・フォー 選出:2015年
通算試合数:2433(ピッツバーグ・パイレーツ球団記録)
通算打数:9454(同上)
通算安打数:3000(同上)
通算塁打数:4492(同上)
通算単打:2154(同上)
背番号
13(1955年 - 同年途中)
21(1955年途中 - 1972年)※ピッツバーグ・パイレーツの永久欠番
1967年を基に通年要素を加えています。
肩力100 ストライク送球 高速レーザー
「ペンシルベニアで投げたボールがニューヨークまで届く」との事なので本当は1300くらい欲しかった。
という冗談は置いといて、1961年に記録した27補殺を越える記録はナショナルリーグでは1936年Gene Mooreの32補殺、MLB全体でも1944年Stan Spenceの29補殺まで遡る。
広角打法
1967年に9本、通算でも92本、逆方向へのホームランが確認されている。
固め打ち
通算で8度の5安打、39度の4安打、227度の3安打と1試合3安打以上の試合が274試合。1967年にも5安打1試合、4安打2試合、3安打17試合。
三振
三振率自体が特別多いわけではないが、ミートや特殊能力の兼ね合いで。1966年、1967年と2年連続で100三振をしているのもある。
併殺
1960年に21、1963年に24で最多併殺。
ウィリー・メイズ (1965) 【パワプロ2018】
ハンク・アーロン (1963) 【パワプロ2018】
ハンク・アーロン (1961) 【パワプロ2018】
ハンク・アーロン (1959) 【パワプロ2018】
自己最高打率
本日はハンク・アーロンデーです。キャリアハイを決めかねたので、1959年と1961年と1963年の三年分を作りました。各年の詳細は上記のようにBaseball-Referenceのリンクを貼るので、興味があればご覧下さい。
1959年は自己最高打率の.355を記録し、二度目も首位打者に輝いた。rWAR8.6はキャリア3位、fWAR8.2も同3位だが、oWAR9.1はキャリアで2番目の数字で、FangraphsのOffense評価67.1はキャリアハイを記録。また46二塁打、400塁打はキャリアハイ、盗塁も8回成功して失敗0。
1959年成績
.355 39本 123打点 223安打 長打率.636 OPS1.037
ハック・ウィルソン (1930) 【パワプロ2018】
MLBシーズン最多打点記録
ペンシルベニア州生まれのウィルソンはメジャーデビュー前はボールドウィンの機関車工場で重いハンマーを振るっていた。それによって、彼の逞しい上半身がつくられた。
1923年ニューヨーク・ジャイアンツでメジャーデビューするも、数年間はマイナーとメジャーを往復する生活を送る。初めの守備位置はキャッチャーだったが足を骨折したのがきっかけで外野手となった。
1925年7月1日20世紀ナショナルリーグ初の1イニング2本塁打を放ち、同年オフにカブスに移籍、名監督ジョー・マッカーシーのもと強打者として実力を発揮。移籍1年目は打率.321、21本塁打、109打点で本塁打王を獲得。1928年まで3年連続本塁打王のタイトルを獲得し、『ナショナルリーグのルース』と呼ばれた。1929年には打点王を獲得し、チームを12年ぶりのリーグ優勝へ導いた。
1930年、チーム打率が.309(ナショナルリーグ全体でも.303という脅威の打者天国だった)という状況の中、ウィルソンはナ・リーグ新記録(当時)の56本塁打を記録、あわせて1927年にルー・ゲーリッグが記録した175打点の大リーグ記録を更新し、191打点を記録した。
翌1931年ロジャース・ホーンスビーが兼任監督に就任した頃から成績は下降し、オフに放出。その後ドジャース、フィリーズに移籍しても、二度と1930年のような打棒は蘇らなかった。1934年に現役引退。
引退後、1941年からはボルチモアに居住。軍需工場勤務を経て市の公園管理部で働き、最後は市営プールの管理人を務めていた。1948年11月23日、体調を崩して入院していたボルチモアの市立病院で死去。死因は肺炎様症状の合併症による内出血。晩年は生活苦で、ナ・リーグが葬儀代を送るほどだったという。
1979年に、ベテランズ委員会によってアメリカ野球殿堂入り選手に選出された。
1930年成績
.356 56本 191打点 105四球 84三振 長打率.723 OPS1.177
チャンスD
MLBシーズン最多打点記録なので、さぞや得点圏で打ちまくっているかと思いきや、打率.366OPS1.103と通算と大差なく、むしろ悪いくらいである。
対左投手E
打率.325OPS1.025とあまり打てていない。
広角砲
判明している46本中28本が逆方向であるライト。通算でも判明している192本中ライトに133本、右中間に5本、逆方向に134本となっている。
これは当時、本拠地リグレー・フィールドの右翼が321ft(約97.8m)しかなかったのも関係しているだろう。(反対に左翼は364ft(約110.9m)と広く、左中間と右中間も同様の364ftであり、中堅に至っては436ft(約132.9m)もある。)
流し打ち
分かっている140安打中71安打が流し方向。
初球◯
三振多いと言うことは反対に早いカウントの成績がいいかと思うので。強くするためでもある。
威圧感
ナショナルリーグのルース。
三振
三振率は当時としては高く、4年連続三振王。
エラー
19失策でリーグ最多。
併殺
21併殺。
人気者
人気だったかは分からないが、ナショナルリーグのルースなので。