リリーフのみ、規定投球回数未到達で最多勝
本田技研在籍時の1984年にエースとしてロサンゼルスオリンピック野球日本代表に参加し、金メダルを獲得する。1985年の日本選手権では本田技研の初優勝に貢献し、自身は4試合で完投し、防御率0.79の好成績を残し、MVPを獲得。1985年のドラフト会議でヤクルトスワローズから1位で指名されたことを機に、入団へ至った。担当スカウトは片岡宏雄で、背番号は18。
1年目の1986年から一軍の先発ローテーションに入ると、1987年には、一軍公式戦でチームトップの14勝を挙げた。
1988年には、故障の高野光に代わってクローザーに抜擢されると、この年開場した東京ドームでの開幕戦で一軍初セーブを記録した。以降は、オール救援で18勝を挙げるとともに、オールスターゲームへ出場。シーズン終了時点で規定投球回数を下回っていたが、規定投球回数を上回った小野和幸(中日ドラゴンズ)と共に、セントラル・リーグ最多勝利のタイトルを獲得した。規定投球回数未到達の投手がこのタイトルを獲得するのは、同リーグ史上初めて。規定投球回数に到達した投手と未到達の投手が、同じタイトルを獲得することも異例であった。
1989年は先発へ復帰。自宅の階段で転倒して足を骨折した。翌1990年も、右肩の故障で未勝利に終わった。
1991年には、プロ入り後初めて、一軍公式戦への登板がなかった。しかし、1992年に7勝を挙げて復活。10月10日の対阪神タイガース戦(阪神甲子園球場)でチームのリーグ優勝をマウンド上で迎えたほか、シーズン終了後にカムバック賞を受賞した。1993年には、チームトップの13勝を挙げて、チームのリーグ連覇と15年振りの日本シリーズ制覇に貢献した。
1994年以降は、先発と救援の役割を兼ねながら、一軍の投手陣を支え続けた。しかし、1996年5月17日の対読売ジャイアンツ戦で、吉村禎章の打球を利き腕の右手で止めた際に骨折(記録は併殺)。全治2ヶ月と診断されたため、戦線離脱を余儀なくされた。さらに、骨折の影響で右手の握力が著しく低下。結局、1998年限りで現役を引退した。
1988年成績
防御率3.15 18勝9敗 17セーブ 55登板 122.2投球回 72奪三振
球速
動画で確認。1993年に146を記録してるから146でもよかったかも
変化球
公式などフォークがよくついてるが、フォークは苦手で、チェンジアップを投げていたらしい。それはネットにシンカーチェンジアップと書いてあったのでサークルチェンジ。
公式はカーブだが、スライダーがメインとの情報がほとんどなので間をとって。あと動画見たらスライダーが遅くてカーブぽかった。
シュートはストレートがシュート回転してるのかどうかわかんなかったけど、投げていたらしいし、公式にもあったので。
いつのことかは不明だが、「プロ野球データファイル」にスライダーが投球の6~7割でシュートとチェンジアップを5%ずつ投げていたと書いてあったので上記の配分で、変化球中心を追加。スライダーは「やや捻りを入れた大きく曲がるもの、小さく滑るもの、小さく縦に変化するもの」の3種類投げていたようだ。
対左投手F、シュート回転
ストレートがシュート回転して、左打者が苦手だったらしい
打たれ強さB
打たれてものらりくらりと抑えてたらしい
勝ち運
勝利の星ですら再現できないレベルだが、金特は個人的に付けたくないので
回またぎ◯
40回が回またぎ、そのうち16回が3イニング以上。さらに最長6イニング投げている